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Calm Oneself  自分自身が穏やかになること。 そんな思いで、京都・宇治・城陽でいろんなヨガ教室を主宰しています。 自分に気づくヨガとの出会い。 ヨガは生きることそのものです。 そして、 我が家の猫たちが、一番の私のヨガの師匠。  猫の話も少しだけ。
2018年10月20日 (土) | 編集 |
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今週は、「耳ヨガ」!

○○ヨガ!
というのがいっぱい出てきて、果たしてそれはヨガなのか???
私には否定も肯定もできない部分がありますが、そこは、少し横に置いておいて。。。

この耳の形。
ヨガを始めたはるか昔にも、耳の形を母親のお腹の中にいる胎児に当てはめて、教えられたことがあります。
確かに似ています。

胎児の身体の部位と耳の身体に対するツボの位置が一致するとか。

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耳つぼと言うと、圧倒的にダイエット効果がうたわれています。
実際は耳には数えきれないツボがあって、身体の部位に対応していて、決してダイエットだけに特化したものではなく、あらゆる身体的症状にも効果があると思われます。

とりあえず、どこでもいいからひっぱってみる!
思っているより、気持ちいいはず。。。

耳の上の方を上に、引っ張る。  もちろん、息を吐きながら~。

耳の真ん中あたりを、横に引っ張る。 息を吐きながら~。

耳の下の方も、下に引っ張る。 息を吐きながら~。

上の方を捻じってみたり、耳の上と下を持って、畳んでみたり。

耳のへこんでいる真ん中を押してみたり。(これが胃のツボか??)

耳の下あたりをつまんだり、押してみたり。(肩こりに効果あり!!)


毎日、ただ、耳をひっぱったり、押したり、捻じったりしただけで、身体の調子が整うとしたら、最高ですね!!

なんでもやってみて、自分が気持ち良かったら、それでいいように思います。


皆さんもぜひ、自分で試してみてください。


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2018年10月19日 (金) | 編集 |
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内容紹介
在宅医療を知る医師でもある著者が描く迫力満点の認知症小説。
老い衰える不安をかかえる老人、
介護の負担でつぶれそうな家族、
二つの視点から、やっと見えてきた親と子の幸せとは?
現実とリンクした情報満載の新しい認知症介護の物語。

医師、家族、認知症の本人の
それぞれの切実な“不都合な"真実を追いながら、
最後にはひと筋の明るいあたたかさのある感動の長篇小説。

「老乱」
久坂部 羊


久坂部氏の著書は大好きです。
医師という立場から、現実から目を背けず、タブーともいえる事柄に取り組み、小説に仕立てるという凄業です。

今回もタイムリーな内容でした。

事実なのか??
と思うほどです。
医師の立場からの視点。

この小説では、認知症本人の思いも語られている点が秀逸です。
もちろん、想像ではありますが、たくさんの症例を観たうえでのことなので、納得します。

認知症は治らない。
絶対的な事実です。
いつだれがなるかもわからない。

介護者、身内の者の苦しみは計り知れません。
到底きれいごとでも済まされません。
だけど、
認知症本人もなりたくてなったわけでもなく、なった後も、苦しいに違いありません。
とんでもない症状だとしても、本人にしかわからない理由や苦しみがあるに違いありません。

長生き。
健康寿命と平均寿命の大きな開きには愕然とします。
健康寿命でも、もう十分長生きのように思います。
長生きって、しあわせで無条件に誰もが目指すものなのでしょうか?

私にはわかりません。

もちろん、自分の寿命は自分で決められませんから、死ぬその時まで、生きるしかありません。
それでも、長生きがいいことという風潮はもう要らないように思います。
ほんとは誰しもそう思っているのではないでしょうか。
寿命を延ばす医学も要りません。

進歩って、なんだろう?

いつも大きな疑問にぶつかるのです。



2018年10月18日 (木) | 編集 |
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私はワンピースが好きで、私服?・ヨガスタイル以外の時は、よく着ます。

そんな時にアクセサリーと言えば、圧倒的にネックレスなんですが、たまにはブローチもいいなと思います。


私の母親の世代では、アクセサリーの主流はブローチだったのではないかと思います。

母の遺品のアクセサリーの中には、色んなブローチがありました。


ワンピースの時でも、セーターでもブラウスでも、
そして、スーツの襟にも、きっとつけていたんだと思います。

今となっては、ちょっとレトロな感じで、ブローチもおしゃれかもしれません。


このブローチは母のモノではありません。

母のブローチは、これこそがブローチだ!
というものばかりでした。

この秋は、少し、ブローチをつけてみようかなと思っているのです。

私もそれだけ、年を重ねたということなのかもしれません。

年を重ねることに抗っても仕方ありません。


丁寧に、年を重ねていきたいものです。。。



2018年10月15日 (月) | 編集 |
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人生は航海のようなもの。
そんな風にたとえられることもあります。

荒波にもまれながら、なんとか泳ぎ切る人生。
心が安定する大船に乗り、人生をわたることが出来たら幸せです。

ヨガのクラスをさせていただくとき、最後に内観瞑想を行います。

新しいクラス、ワークショップや1回限りの講演など、ヨガで出会う人々は様々で、今までに出会った方は相当数になるかと思います。

初めて出会う方にお話してきた3つの大切なことがあります。
昨日も初めてのクラスが開講され、ヨガも初めてという方がほとんどでした。

3つの大切なこと

*すべてのことを比べない

すべてのことですので、生まれてから今までの自分に関わるすべてのことです。
自分の意志ではどうにもならないこと、環境や持って生まれたもの全てです。

*すべてのことを他人のせいにしない

すべてのことなので、あきらか自分の責任ではないことや理不尽なことまでもです。
それは、他人のせいにしても何も解決しないからです。
ただ、今そこから、自分のできることをするしかありません。

*すべての自分を受け入れる

自分自身を肯定するという考え方もありますが、肯定できないこともあるのではないかと思います。
いいことも悪いことも、好きな部分も嫌いなところも、その全てが自分だと受け入れることで、自分の人生を生きることが出来るように思います。

自分自身が、他の誰か他人になることはできません。
いくらそうなりたいと思う人がいても、変わることはできません。

誰かの思い通りに生きることも辛いことです。
真似をするのもある意味、そうなのかもしれません。
自分で自分の車の運転のハンドルを切るように、自分自身で生きるしかありません。

究極は、すべて自分なのですが、その自分もすでに在ります。

私も行き詰まったり、嫌になったり、投げ出したくなったりした時は、
この3つのことを思い出すことにしています。

心が弱っているときは、そうわかっていたとしても、なかなかうまくいかないかもしれません。
それでも、すべては自分ということには変わりはありません。

生まれてきたら、死ぬその時まで、生きる。

今という時を。

それしかないのかなと思います。

今まで出会った皆さん、
これから出会う皆さん、

ありがとうございます。。。



2018年10月14日 (日) | 編集 |
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群盲象を評す

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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群盲象を評す(ぐんもうぞうをひょうす、群盲評象)は、数人の盲人が象の一部だけを触って感想を語り合う、というインド発祥の寓話。世界に広く広まっている。しかしながら、歴史を経て原義から派生したその通俗的な俚言としての意味は国あるいは地域ごとで異なっている。真実の多面性や誤謬に対する教訓となっているものが多い。盲人が象を語る、群盲象をなでる(群盲撫象)など、別の呼び名も多い。

その経緯ゆえに、『木を見て森を見ず』 と同様の意味で用いられることがある。 また、『物事や人物の一部、ないしは一面だけを理解して、すべて理解したと錯覚してしまう』 ことの、例えとしても用いられる。

さまざまな思想を背景にして改作されており、ジャイナ教、仏教、イスラム教、ヒンドゥー教などで教訓として使われている。ヨーロッパにも伝わっており、19世紀にはアメリカの詩人ジョン・ゴッドフリー・サックスがこれを主題にした詩を作っている。


ヨガの講座でも出てきた教え。

本を読んでいても出てくる教え。

昨夜観た映画でも出てきた教え。

何度も出てくるので、きっと私にとって、大切な教えなんだろうと思う。

確か、このイラストのように、6人の盲人と寓話に出てきたと思う。

現代では、視覚障碍者に対しての差別的な表現ということで、いろんな意見も聞かれる。


これは、視覚障碍者のことを言っているのではないと思う。
目が見えていても、一部分しか見えず、そのことしか理解していないにも関わらず、まるですべてのことを理解しているように錯覚していることを指摘しているはずだ。
盲人というのは、たとえであり、決して差別的な意味合いではないと思う。

私たち人間というのは、自分が正しいと思う愚かな所がある。
まず、自分もそうかもしれないと自覚しなければならない。

自分だけが正しいのではなく、この寓話が教えてくれるように、実は6人の思いは、それぞれその人にとっては、事実で正しいことなのだ。
実際に現実社会でもこんな現象はよくあるのではないかと思う。

そんな時、それぞれの人がそれぞれの意見を聞き、それぞれがその人なりに正しいと理解し合い、ひとりでは到底理解できなかったことをたくさんの人が一緒に集うこと、話し合うことで、大きなスケールのことを成し遂げることもできるのではないかと思う。

理想論、きれいごとで、片づけてしまわないようにしたいといつも思っている。
そんなにうまくいくことばかりではないかもしれないが、始めにそう諦めてしまっては、どうしようもにない。

自分を信じることと同じくらい
自分は間違うこともあると、知っておくこと
そして、
自分以外の人を自分を信じるように、信じたいと思う。