京都・ヨガのある暮らし ーCalm Oneself Yoga-

Calm Oneself  自分自身が穏やかになること。 そんな思いで、京都・宇治・城陽でいろんなヨガ教室を主宰しています。 自分に気づくヨガとの出会い。 ヨガは生きることそのものです。 そして、 我が家の猫たちが、一番の私のヨガの師匠。  猫の話も少しだけ。
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みぃーが旅立ちました。

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11月8日。

たぶん夜の6時ころ、我が家の猫のみぃーはひとり静かに息を引き取りました。

ずぅ~とそばにいて、みまもっているはずだったけど、私は4時ころ出かけ、7時に仕事を終えた主人が部屋に入ったときには、魂は抜けていたそうです。
猫らしく、誰も見ていない時に静かに安らかに自分の意志で旅立ったのだと思います。

8日は、奇跡的に横浜勤務の次男がサッカーの試合で京都に帰り、ほんの少しだけ、家に立ち寄り、寝たきりのようになったみぃーに会えました。
そして、次男が側によると、なんと、満身の力を振り絞り立ち上がって、顔をまっすぐに上げ、見つめました。

もう、それは何とも言えません。

きっと、会えないと思っていた二男を待っていたのでしょう。

いつもほとんど家にいない三男もこの日は夕方のイベントまで家にいました。

みぃーの最期、死ぬまで生きる姿を見ています。

誰よりもみぃーを愛しかわいがっていた長男は8日は、家にいませんでしたが、みぃーがいろんな狭いところに頭を突っ込むということを知り、猫ハウスをすぐに送ってきました。そして、普段全然帰ってこないのに、何度もみぃーの様子を見に帰ってきました。
それで、この長男が送ってくれた猫ハウスで永遠の眠りにつきました。

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みぃーの立派さはそれだけではありません。

私も主人も仕事のオフが月曜日なのです。
みぃーは、そのことをよくよく知っているのです。
8日の日曜日の夜に旅立ったみぃー。
今日、月曜日、私たち夫婦で動物霊園でお葬式と納骨をすることができました。

護摩木にみぃーに願いを書き、一緒に焼いてもらいます。
「ありがとう」
ほかの言葉がみつかりません。

死ぬということは、生きるを全うすること。
身をもって教えてくれました。

今はまだ、その悲しみがどれほどなのかわかりません。
日常の何気ない一コマで、
「あぁ、みぃーがいないのか」と気づいた時に、その存在の大きさを知るのでしょう。

何もかもが偉かった!みぃー。

その存在全てが愛おしいということを教えてくれた。

ありがとう。

そして、

これからもどうぞよろしく。。。

心の中に。

合掌


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みぃーは、ありのまま。

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みぃー。

毎日、その姿で、生きるということを教えてくれる。

10日から、何も食べないのかと思ったけど、

水は飲んでくれた。

そして、コンソメ状態のスープも時々は飲むことがわかった。

餌を入れるお皿の台の高さを高くして調節したら、今のみぃーの身体の状態でも少し自分で飲めることがわかった。

初めて猫用のミルクというものを買って、そして、飲んでいる。

そんなことを旦那が試行錯誤してくれる。

病院には、行かない。

静かな死への道のりだ。

それは予想よりはるかに長い時間だ。

それがみぃーにとって、苦痛なのか、自然なのか、もっと長いものなのかもっと早く時間をと願っているのかわからない。

自分ではどうしようもないことがあるということを肌で感じる。

身を任せ、そして、ただ自分のできることをする大切さ。

それは、とても崇高なことだと思う。

みーぃに訊いてみたいことがいっぱいある。

だけど、

何一つ答えてはくれないだろう。

答えは自分の中にだけ、あるのだろう。

ありがとう、みぃー。

また明日も。

合掌

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みぃーは、死ぬまで生きる

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わが家のみぃー。

10月10日から、水しか飲んでいないけど、まだ生きてくれている。

水だけで、こんなに生きていられるんだ。
決して、文句を言わない。
弱音も吐かない。
苦しいとも言わない。
時々、遠くに向かって吠える。

狭いところに突っ込んでいく。
じっとしてる。

本当はどこか外、山奥にでも入り、誰にも見られず、静かに死んでいきたいのかもしれない。
わからないし、家にずっといてほしいと思い、外で野垂れ死にはかわいそうと言うのもこちらのエゴかもしれない。

この本の1ページを紹介します。

「生かされて生きる」

生まれてきて、
死に至るのが、
人の一生だ。
長生きの人もいれば、
短命の人もいる。
なかには、
長生きできるのに自ら命を縮める人もいる。
生きていくことができるのに、
なぜ、自ら死に急ぐのかというと、
それは、生きることに執着しているからだ。
生命は自分のものではなく、
与えられたものだ。
人生とは、
自分の知らないところでプログラムが組まれている。
何があっても、怖くない。
なぜなら、
まだ、死ぬタイミングじゃないからだ。



わかりますか?
凄いことです。

自ら死に急ぐのは、生きることに未練がないのではなく、執着しているから。

その意味は深く、真実だと思いました。

そして、みぃーは、ただ死ぬまで生きるということを、毎日、身をもって教えてくれています。

最期とは。

安らかでありますように。。。

合掌




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みぃーと私

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穏やかに眠るみぃー。

実はここ1か月ほど前から、様子がおかしい。

今まで聞いたことがない恐ろしいうなり声で鳴く。

その声の大きさも半端ない大きさ。

それも全く意味がないとき、壁に向かってや、テーブルの下で。


そして、低い椅子からも滑って落ちる。

猫が落ちるなんてことはありえない。

あぁ、年をとったんだ。

もともと子猫の時に野良でやってきたので、正確な年齢がわからないが、我が家に来てから17年は経っているように思う。
そうするともしかして、20年くらい生きている。
おじいさんなんだなあ。。。

昨日から、エサも水も飲まなくなった。

そして、まるで洞窟を探すように、こんなに狭いところに入れたのか?と思う場所に入っては出て、また違う場所に入り、時々唸る。

どこに入ったか、ドキドキしながら探す一日だった。

もしかして、息を引き取っていないかと。

みぃー1
みい3

少し若いみぃー。

よくベランダから飛び降りて、外に散策に行っていたが、大ゲンカで瀕死の重傷を負い、矯正手術を受け、年も取り、もうベランダから飛び降りなくなっていたのに、今日、洗濯物を干していたら、鋭くベランダに来て、自らの意思で、ベランダの柵に身を通して、下の庭に飛び降りた!
死んだかと思った。。。

大丈夫で、どちらかと言うと穏やかで落ち着いて土の上で気分良さそうだ。
自然の力には勝てない。

だけど、このまま最後の力で外に出たら心配なので、なんとか嫌がるみぃーを抱き上げ、家の中に入れた。

この連休に限って、家には私一人しかいない。

そんな時にみぃーの異変。

私が一人で見守ることになった。

ずっと見ているよ!

みぃー。。。


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みぃーが教えてくれること

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わが家の猫のみぃー。

たぶんかなりのおじいさん。

だから最近、私が勝手に思ってることだけど、彼も認知症を避けられず、わけもなく突然大声の唸り声をあげる。

全くあらぬ方向を見て、遠吠えとも思える声を時と場所を選ばない。

「あぁ~、どうなってるんだろう。。。」と私があきらめてガックリきたころに、突然うなりは終わり、何事もなかったように澄ましている。


この写真でわかるだろうか?

後ろ足の毛が毛羽立っている。

高齢になって、身づくろいのおしゃれな猫でも、後ろまでできなくなってきたのだ。

この場所は代わりに毛をといでやろうと思っても、触ると嫌がるのでできない。

みぃーとしては、「どうぞ、ほっといてください」ということなのだろう。

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一応、彼なりに、この辺りまでは毎日お手入れを欠かさない。

それで何か問題でも?と言うことなのだ。

この写真からわかるように、後ろ足の爪も伸びてしまって、歩くとカツカツと音がする。
爪とぎも後ろはうまくできなくなったようだ。
それも致し方ない。
自分の年齢のまま、自然に生きている。

猫を見ていると、

「にゃんとかなる。
  にゃるようにしかにゃらない。
          疲れたら、寝とこ。
            自分の意見は一応、聞いてもらえるまで鳴いとこ。」

そんな風に思えます。
尊敬しております。
全く年を重ねても加齢臭とは無縁。全然体臭がありません。
素晴らしい!

今もふと知らない間に、私が座る椅子の下に静かに待機しています。

見守ってくれているのでしょう。

ありがとう、みぃー。

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